初めまして。「伝説の癒し」と申します。
早速ですが、自己紹介をさせていただきます。
学生時代
・小学~高校生
8歳で中国から日本に来てから、日本の通常の私立小学校に入学し
日本人と変わらぬ生活をしていました。
最初に戸惑ったのはもちろん”言葉”ですが、小学生の頃というのは
言語を学ぶのに最適な年齢だと今は深く実感しており、日本に連れてきてくれた両親に感謝しています。
中国では勉強と食事と睡眠以外やってこなかった私が、日本では初めて
友達を作り友達と外で遊び、そして遊ぶ楽しさと人間関係の難しさに気づかされました。
日本語は9歳の頃には完全にマスターしていて日常会話では中国人と思われることがすでに無くなっていました。
10歳のころ親に強制されて塾に通い(中国での地獄の勉強漬けのせいか)算数の全国模試ではTOP10の常連でした。
そして千葉県の有名私立中高一貫校に入学した私は全国から集まった優秀な友達と交流を深め多くの友人(今でも交流を絶していない親友)に出会えました。
中高では部活動でハンドボールをしていました。
中学では関東大会ベスト4、高校では関東大会ベスト8、そして高校3年生の時には
JOC強化指定選手(千葉県代表)にも選ばれました。
しかし私は、親からの圧力もあり、勉強をして大学にすすむ道を選びました。
幼少期の勉強漬けの反動で勉強が嫌いになっていたのですが
高校2年生のときに通い始めた塾で良き先生と巡り合えて、当時学年の下位にあった成績も再び上位に浮上しました。
もちろん苦手な科目はありましたが、中学から変わらず、理数系と地理歴史が大得意で、
苦手な科目は英語と国語でした。
そんな苦手科目も塾で勉強をしていくうちに苦手意識が薄れていき
センター試験では英語は9割、国語は6割を超える成績を収めることができました。
(国語は現代文21点古文漢文100点と偏っていましたが・・・)
大学の第一希望は東工大だったのですが、惜しくも1点足りず不合格でした。
当時自分が希望していた東工大の情報系学部は、7つある学部の中でも一番倍率が高く
両親には他の学部を目指せと言われていました。
しかし私は頑なに第一希望を目指し、その頑固さゆえに不合格となって渋々滑り止めで受けた東京理科大学に進学することが決まりました。
・大学生
大学生になった私は高校生の時よりも交流の輪を広げるべくサークルに入り、仲間をたくさん得ることができました。
電気工学部に進学し、電気について学び(主に数学が好きだったが)大学の授業が終わるとサークルの仲間と飲みまくりました。
大学は自分にとっては学問を学ぶところではなく、今までの知識をさらに深めつつ、自身に自由な時間を与えてくれるような空間に感じていました。
そして親が厳しい私の家庭ではあることが起きていました。
大学に進学するのに、両親は東工大(国立大学)に進めとかなりのプレッシャーをかけてきましたが
私は希望に沿うことができませんでした。
それを見限っての事か両親は私立大学と私が行くはずだった国立大学の差額を支払えと命じてきました。
当時は家庭の経済事情もあまりよくなかったため、納得せざるを得ませんでした。
アルバイトをすることで、お金を貯めていた私は、サークルや友との交流と両立すべく獅子奮迅の勢いで働きました。
私の努力はむなしくお金を稼ぐために働く時間がどんどん長くなり、自由な時間はほとんど失われてしまいました。
そこで頑張って働いても自分で使用できるお金はほとんどない。友達とも遊べない。こんな生活をして自分は何を得られるのだろうかという疑問がわき、大学2年生の終わりの頃、私はついに大学を中退することを決めました。
就活時代
・1社目
大学を中退した私は気持ち的に驕っていました。自分には中国語ができるアドバンテージを持っている。高卒だとしても自分を必要とする企業は多いだろうとタカをくくっていました。ですが、現実は想像していたものとは違い高卒の私を必要としている会社はあまり多くは見つかりませんでした。そこで、中国語ができることを全面に押し出すために私は航空系の企業を選びました。ここでなら自分が生まれ持ったアドバンテージを生かせると考えました。1社目の面接で即採用され、私は成田空港で働くことになりました。いま振り返ると就活といった就活はせず、すぐに決めてしまったのは、21歳という当時の若さゆえの事だろうと思っています。
・2社目
1社目の航空会社に1年半勤務した私は、学生時代味わえなかった感覚、自分で稼いだお金を全額使用できる感覚に魅了されていきました。そして湯水のようにお金を使う中で気づいてしまったのは「これが本当に自分のやりたいことなのか」という疑問でした。
そして意を決して本来やりたかった仕事であるIT企業へ転職をすることにしました。しかし、今回も1つ目の面接で合格し、またもや就活とは何かつかめずに流されるまま入社しました。
・3社目(コンピュータ技研との出会い)
25歳となった私は3度目の転職をしようとしていました。
(3社目は知人の紹介のため省略)ここで初めて就活の厳しさを思い知りました。
今まで自分は勢いと若さのままに自分をアピールしてきましたが
ここにきて自分の思い描く自分像がはっきり見えなくなってきていました。
25歳という人生の分かれ道ともいえるこの時期、自分は将来何になろうとしているのか見えないまま
面接を受けるべくIT企業を探していました。
自分の同級生が出世していく中自分だけが取り残されたような焦燥感が
自分の心を追い込んでいたとは知らず、高い給料で条件がいい会社を探しては
面接を受けに足を運びました。ですが、私はここで初めて人生の挫折を味わいました。
生まれて初めて、面接で落ちてしまったのです。
その時私の中で何か崩れ落ちる音がした気がしました。
自分のプライドや今まで築き上げてきた自尊心が失われ、自信がどんどんなくなっていきました。
そこでもう一度自分を見つめなおすことができたのは不幸中の幸いとも言えます。
私はこれから自分が何をしたいか、何を残したいのかを考え直すようになりました。
コンピュータ技研の面接に申し込んだ私は心に決めていました。
「自分が今まで学んだことを後輩に伝えよう。人の上に立ちより良い会社を作っていこう」と。
「この会社には自分がこれから貢献できるだけの空間がある。これから自分を育ててくれる空間がある。」とも思っていました。
そして私は、興奮のためか1時間以上早く到着し、コンピュータ技研の面接に臨みました。
面接でまさかのテストを受けた私はとても緊張しましたが
数学大好きの負けず嫌いな私はなんとかクリアできました。
その結果、コンピュータ技研へ入社することができたことを、今もとてもうれしく思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました!